仲間や親しい人との絆もあれば嫌いな奴ともあるのかもしれない

仲間の絆は存在するのか

ふと子供の頃を思い出す。
仲間を売る人間が多かったなと。

何か悪事をやらかしたときに仲間が捕まると芋ずる式に捕まる(呼び出される)
なぜばれた?
それはへました奴が仲間を売ったんだろうなと想像できる。

一緒に学校さぼった仲間が教師にばれればばれない者までばれる。

間抜けな仲間は敵より厄介とはよく言ったものだ。
小学生くらいでは教師数人に囲まれ問いただされればすぐゲロる。
だから自分は逃げおおせても挙動不審な仲間から悪事(とはいえ小学生だからかわいいモノ?だろう)が教師に見つかるのは日常茶飯事だったな。

だからか人とあまりつるまなくはなったし人間不信になる。

まあそんな奴とは悪事(何度も言うが子供のする事だから大したことはない)を共有しないのは当たり前のことだと子供の頃に学ぶ。
付き合う人間は選ぶべきとね。

でもそうなると本当に信用できる人間っていないよな~。
大人になっても仕事上のへますら他人の所為にする奴や、他人に罪を擦り付ける奴がいる。
世の中保身で生きる人間で溢れ返っている。

たかだか謝ればいいだけのことすら自分はやってない、関係ないと言った風に逃れようとするやつばかりだ。

だから子供の世界もそんな風だった。
大人も子供も済む世界に違いはないんだなアとしみじみ思う。

だからか私は仲間を売る事だけはどうしても許せない。
裏切り行為は殺人より重いと個人的には思っている。

悪ガキだったが仲間を売ったことだけはない。
弱い奴を逃がす為に自分が囲まれてリンチされたこともある。

自分がへましたら一緒に行動してたやつをなぜ売るのか?
教師の「他に誰がいた?」って凄みになぜ耐えられん?
本当に子供らしい軟弱者だらけだ。

子供には子供の仁義があり、教師は対立する存在だ(悪ガキにとっては)
そんな奴らにちょいと脅されただけですぐベラベラしゃべる。
仲間内じゃ「○○先なんかこわくねーよ」みたいな調子乗ったこと言ってるのに。

いざ目の前にすると黙り込む。
情けない。

ビンタぐらい耐えろよ。

こちとらミドルキック3発からのタワーブリッジからの投げっぱなしでも謝らんかったぞ。
服破れて親に言い訳するのも大変だった記憶が・・・
っていうか大人が本気出すと小6でもきついわ。
っていうか書いててすげーことやってたんだな昔の教師は(笑

そんな恐い大人の前では子供の絆などそんなものかもしれんね。

大人でも自分に被害が及ぶとなると平気で縁切るし、まず金銭での損得付き合いが殆どだと思うしね。

仲間の絆って命かかってる戦場とかじゃないと生まれないものなのかもしれないね。

現代の人とのつながりが希薄になってるところに一蓮托生はそぐわない。
そもそもそんな奴はいないし、そう思える人間もいない。

誰かのために身を滅ぼすようなことがあっても信念を曲げない。

あーないない
この時代にやっぱ合わねーわ

長年連れ添った夫婦でも無いわ。

例えば私は善悪関係なく仲間だったらちんけな正義感は振りかざさない。
自分の価値観で判断する。
そいつが悪人でもだ。

仲間を売る行為が自分を裏切ることだからだ。

しかし、世の中は犯罪者となれば人は離れていく。
どういう経緯かは関係ない。
法を犯せばすべからく悪人。
人はそう見る。

その時にどういう対応されるかで本当の“仲間”かどうかが分かる。
目に見えてるけどな。


仲間の絆は存在する。
が、それを発揮できる仲間がいない。
損得勘定とくだらん体裁のみの付き合いで一蓮托生が成立するわけはない。
自分と秤にかけた時に掛け値なしに身を挺せる人間などまずいない。

平和な世界だと他人ってその程度の価値なんだとつくづく思う。

でもだからこそそんな人間が居たらなあと恋い焦がれるのかもしれないな。



絆というか得も言えぬ感覚を覚えた

私は小学生の頃は悪ガキだった。
小学生って通学路ってものがある(義務教育はあるのかも)
しかしその通学路と言うものは遠回りなのだ。

だからもちろん近道を通る。

すると翌日先生に呼ばれ怒られる。
今考えるとこんなことごときで個人的に呼ばれ、延々と説教されるってひどくね?
昼休み丸々つぶれたり、放課後1~2時間くらい捕まる。

まあ子供だから人通りの少ない場所で攫われたり、なんか事故とかあってもすぐ対応できるとかあるだろうが。

とにかくチクられた。

わたしは当時ケンカも強かったからチクる奴と言えばあいつしかいないと目星はついている。

そいつはなんていうか真面目なスポーツマンタイプで「先生に言ってやる」が口癖の嫌な奴(私にとっては)

Yと呼ぶことにする。

なんていうか悪さする私を目の敵にしていたのかもしれない。
いくら「てめえチクったらぶっ殺すぞ」と言っても次の日先生に呼ばれてたよ・・・

ある時給食で並んでいたYの前を横切ろうとしただけで「横入りすんな!」とすさまじい剣幕で言ってきたことがあった。
このときは即ワンパンKО(Yは弱い)
こいつをやっても弱い者いじめにしかならんしこっちが悪者になるからあまり手は出さないが、あまりの剣幕に頭きた。

やっちまった・・・

案の定先生にはいくら言っても私が悪いとされて(まあ殴ったし)延々と怒られたわ。

くそっホントに苦手なタイプ。
ちょいイキってるような奴は強さを見せれば黙らせられるが、この手のタイプは効かない。
余計大人を味方につけ潰しにかかってくる。
ケンカも弱いくせに自分が正しいとしてあくまで強気。

争ったりしても悪ガキのこっちが悪いんだろうと先生たちには見られるし、脅しも効かないしで無駄な労力なのだ。

何度てめえといきり立っても「通学路守らないお前が悪い」の一点張り。
ある意味凄いわこいつと思ってた。

今考えると私がちょっと脅せば黙る奴が多かった中Yは自分を曲げなかったな~
当時は嫌な奴だったけど。

そんなYが死んだと知らせを受けたのは20代の頃だったな。
それまでYの事など忘れてたが、いろんなこと思い出したわ。

ベットで冷たくなってたのを家族が見つけたらしい。
原因不明の心停止だったらしい。

もしかしたら悪いことは悪いと頑なに信念曲げないことがストレスだったのかもな。
社会に出れば多少妥協しなきゃならん部分はあるものだし。
クソ真面目で頑固だったしな。

自分の信念曲げないって大人になるほど結構大変だからね。

意地でも通学路守らない私とその都度先生にチクってたY。
お互いある意味信念曲げない同士だったわ(笑

そう思ってこの時は超々嫌いだったYが身近に感じたもんだ。

絆とまではいかないが、理不尽と戦い続け果てた(私の勝手な妄想)と思うと意地で戦い続けた私にとっては戦友なのかもしれない。
本当に嫌いだったらこんな思いを馳せる事もなかっただろう。
意外とあのいがみ合ってた懐かしい時代が心の底では気に入ってたのかもしれない。

死んだと聞いたときは得も言えぬ感覚になったのを今でも覚えている。

そんなことを思いつつ偶には墓でも参ってやるか。



今の時代争ってる相手ほど絆はあるのかもしれない

思い返してみると仲良くしてた奴よりケンカしたりした奴の方が印象に残る。

小5の時よく争ってた小6の連中に今仲良くしてる奴が多かったりする。
頻繁に会うわけではないが、会うとよくケンカしたな~とか話に花が咲く。

戦績的にはこちらが負け越してる。
向こうが不良グループに対し私はほぼ一人。

卒業前のリンチでは20人くらい集めたよ奴ら(笑
こっち私含めて4人。
小学生でだぜ?やりすぎだろ。
あれはやられるしかなかったわ。

ちなみに他の3人は見てるだけならお前たちには手を出さないとか言われてて黙ってた。
さすがに同級生の中じゃ敵なしでもあれじゃ手だせないから仕方ないわな。
私もボコボコだし(笑

アレはさすがに私も痣だらけで先生や親にばれた。
先生も知ってるんだよな小6の不良連中と小5(私だけだけど)の確執を。
いつも怪我しないのにこの時はひどかったからすぐ「あいつらにやられたんだな?」って先生にばれた。

うちの親も私がやられても普段はこっちも悪いからって何も言わなかったけどさすがに20対1だったのが腹立ったのか「ケンカしても良いが一対一でやれ」って小6のボスの家に怒鳴り込んでた。

結構大事になって、主犯格のそいつはもう手だししてこなくなった。
昔はこんな感じで隠してもケンカやいじめって大人がおせっかい焼いてきたもんだけどな。

んで今はそいつと仲が良かったりする。
何で子供の頃あんな争うんだろうな。
子供には子供の縄張りやルールってもんがあってお互い譲れないんだよな。

大人になると無駄な労力として争いを避けるけど、子供ってひたむきで純真。
自分の気持ちに素直にムキになれるパワーがある。
なんか自分の信念持ってる奴が多かった気がする。


争う事は少なくとも他人の存在を意識している。
好きの反対は無関心とはよく言ったものだ。
嫌いだと思う事は相手を見ているが、無関心は見てもいない。

大人になると他人に関心が無くなる。
その価値を見出せない。
おそらくお互いに。

なんとなく寂しいわな。

嫌いな奴くらいは欲しい。
好きに転じる可能性があるわけだし。

嫌いな奴ならいくらでもいるって思ってる人は勘違いしている。
それは憎い人だ。

相手の価値観を否定して受け入れないだけだ。

憎い、なぜこんなことするのだ?憎い

こんな風に。

相手の価値観は理解できるが自分の価値観を認めてくれないが認めさせたいと思えるのがそうではないか?

私の例だと年上に逆らう生意気な年下はビビらせて下に付けようと思う小6連中と、生意気だと思われてるのは承知だけどヘこへこするのは気に入らないから争ってでも自分を通す私。

確かに“年下のくせに生意気だ”と思う相手の気持ちは分かる。
でも、相手も力で押さえつけられるのが嫌な事だと理解したうえで従えようとしてたはず。
お互い相手の事情を知りつつも自分の意見を通そうとして争っていたのだろう。

これはお互い嫌い合って無視できない存在だった事から、とがった気持ちが丸くなったところで軟化した。
もともとお互いの事理解していただろうからな。

無関心だったらそもそも争わない代わりに打ち解ける事もない。

憎いと思うのもこれに近い。
憎い人間はそもそも理解する気もないからな。
憎いもの同士は触れ合わない避け合う。
自分を傷つけるだけだと思っているからな。

現代の人間関係ってこれが多いんじゃないだろうか?

経験則で争うってことは仲良くなり絆が生まれる可能性があると感じる。
余計なトラブルは避ける方が良いが、争ってでも自分の意見を主張するのも時には必要だな。


人間の絆が~とか簡単にほざく奴がいたからいろいろ考えてみたが人間って感情の生き物。
絆は言葉で受け取るより感じる方が理解できるのではないだろうか。

人間は内には秘めてる。
一蓮托生な関係を築けることを。
ただ人間一人当たりの価値が無いのだ。

自分も人を信じないし相手も“だから”信じない。
そういう状況もないし、そうじゃなくとも生きていける。

激しい争いもないが、強いつながりもない。
何とも味気ない世界が現実と言えるのだなと感じる次第だ









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生命はなにかによって存続させられているのでは?

生命のリレー

子孫繁栄のために生命は存在している。
生命のリレーを繋げ、別の存在“子”へと。

それを延々繰り返し、今に至っていると考えられている。

その先に何があるのか?
生命を紡いでいった先には何があって、何を得るのか?

まあ、最終的には“滅”だろうけど。

そう考えると、なぜこのようなシステムで生命はリレーしているのか?
そうして命を続けた先に我々が想像もしないような出来事が訪れたりして。


大いなる意思によりそうさせられている

自由意志は存在せず、なにかによって“そうさせられて”いる。

そんな気がする

自分の遺伝子を残す為に躍起になる生物。
他の生物を滅ぼしてまでも生き残ろうとする。
自分、もしくは種族が最優先。

そうやって、生物は競い合い生き残りをかけて戦ってきた。

なにかに憑りつかれている様に。

他を滅ぼし、種を存続させることにを何の意味があるのか?

他を滅ぼし、やがては孤独になった己をも滅ぼす。
その先には何があるのか?

所詮操られているだけの存在には解らないのだろう。


この世に生まれ出で、成長しリビドーのまま子孫を残す。
この世に生まれたらそうあるべきでそうすべきと教われ、それに従う。

なぜそうするのかを教え受け継ぐ者はいない。

ただ、そうすべきとしか教えない。

それはそうだろう。
教えられるわけもない。
なぜなら、そこに自由意志はないから。

そうすべきと、なにかによって思い込まされている。
生まれ、子を産み育て、またその子が子を産む。
これを、プログラムされた機械のように延々と紡いできた。

その意味も理由も結果もわからないまま。
それらをプログラムはされていないからな。

生命すべては、遺伝子の奴隷でしかない。
漠然と子孫繁栄を目的に生命をリレーしてきた。
具体的な説明も出来ないまま、リビドーのままにね。


そう考える個体もまた計算のうちなのだろうか?
大いなる“なにか”によっては。

私の目の前に「子供かわいい」と惚気る人間がいる。

子供が可愛いと思えない私はこう思う。

やはり、なにかによって“かわいい”と思い込まされて、育てさせられているのでは?
そうやって生命のリレーをさせられているのでは?と冷めた眼差しで受け答える。

子供に惚気る人間も、そう考える私も所詮決められた考えしか持たず、それだけしかプログラミングされていない操り人形なのかも。

と、思いながらその光景を見ている自分がいる


















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退屈という概念を持つということは時間の有効活用とは程遠い

退屈というのは子供の感覚

そういえば、大人になってから退屈だと思ったことはないな。

子供の頃は一人でかつ、やることがないと退屈でつまらない、だから遊びに行こうとか思ったもんだ。

しかし大人になった現在、一人でいようがやる事なかろうが退屈だと感じない。
むしろそんな状況が好きでもある。
何もすることがない=何もしなくていいだからな。

子供の頃は時間を持て余し、暇な時間を退屈と感じていた。

退屈という感覚は子供特有なものだと言える。

もし、大人になっても退屈だと感じることがあるのなら、それは子供のまま成長していないとすら思える。

退屈。
することがなく時間を持て余す、今していることに飽きるとかか?
まあ、確かに仕事を朝から晩までやっていれば“退屈”なのかもしれない。

でも仕事は仕事。
したくないのにしなければならないことに対し退屈っていうのも変だな。

やはり、することがなく時間を持て余していることが“退屈”って感じだな。

そうなると、やはり退屈を感じたことはないな。

することがなくても、することがない状態を飽きることはない。
むしろ、そんな時間こそ貴重。
子供の頃はこの貴重さが分からず時間を無駄にしてきたな~と思う。

大人になってからも退屈だと言っている人は本当に幼稚な考えだ。
それで、わざわざその退屈を紛らわす為に無理やりすることを探し、時間を埋める。

退屈だと思う事自体人生を無駄にしていると言えよう。

退屈とは、成長途中の子供の感覚だよ。
何をするのが今の時点でベストなのかが分からないのだからな。

退屈だから何かするのではなく、目的をもって何もしないというのもアリだな。
目的を持たず何もしないこと自体が目的にもなるしね。

何もすることがなく、何もしてないから退屈と言うのは子供の発想なのだ。

暇を持て余す。
そもそも暇を持て余すことはない。
暇になることが目的だったるりするし。

暇を持て余すのも子供の所業。

大人になると暇だと思わない。
子供が暇だと思う事は大人にとっては貴重な時間だ。

その時間を作るために行動することもある。

そういうと、“退屈”だけでなく“暇”とも思ったことないな。
今生きているこの瞬間を意識すれば、暇だとは思う事はない。

まあ、はたから見れば「あいつ何もしてなくて暇そうだな」と思われるかもしれない。
だが、少なくとも自分は暇だとは思っていない。

その暇だと思われるような時間すら自分にとっては忙しい時間と等価値なのだから。

暇だ、退屈だと思う事はそれだけ人生に無駄な時間があるという事だな。

いい大人にもなって時間の使い方も分からないのはどうかと思う。
あえて何もすることがない、何もしないことを受け入れるのも一つの手だ。
無理に何かしようとするのは時間の有効利用だと勘違いしているに過ぎない。

時間の有効利用とは人それぞれだ。
忙しく立ち回る事が時間の有効活用だとする人、ゴロゴロ寝るだけでも時間の有効活用とする人もいる。
何かをわざわざ探し、することだけが時間の有効活用ではない。
自然の成り行きに身を任せることも時間の有効活用にもなり得る。

自身にとって、有用なことは人により違うのだ。

暇そうだとか、退屈そうだとかは他人が決めることではないのだ。

そう自分の尺度で他人の感情を決めることは幼稚な子供としか言いようがない。
大人は自分自身で何が重要かを人生の一瞬一瞬において決めているのだ。



退屈だと感じる間がないのが大人

子供と違い、人生に責任を持ち、自分で切り開いていく大人は誰にも流されない。
確固たる自我を持っている。

退屈だと感じる暇もなく、自分のすべきことは自分自身で決めていく。

だから、暇なら付き合えという我が友は放っておいてひと眠りすることにする






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地震で避難生活子供は楽しいだろうな

非日常は楽しい

俺「おお、やべーよー」

友人A「うぃーっす」

友人B「どうなんべや?」

友人C「やばくね?」

友人D「うぃうぃうぃ~」

って感じだろうな?子供の会話は。


あんなところでわいわいやらんもんな普段。
で、見慣れた顔に会ったらこんな会話になる。

ところが、大人は悲壮感漂う。
家が潰れりゃ生活や金銭面の心配、他人と夜中まで一緒に居なけりゃならん煩わしさ。
大変だよな。

子供の頃に災害は遭っとくべきだわ。
子供の頃ならこういうの平気だもんな。
2~3日くらい野宿とかやってたもんだ。

大人になってから、特に年取って避難所すし詰めじゃストレス溜まるわな。
土べたでも平気で眠れるようにならなけりゃ生きていけんな。

枕が替わると寝れん?
だったら死ね。


どこでも寝れるわ。
樹海でもゴミ箱でも。
学校とかだったら屋上で寝れるな。

昔、夜中から渡り廊下で寝てたら朝練来た奴に見られたな~

まあでも見ず知らずの奴等と一緒が嫌なんだろうな。


子供は羨ましいわ。
体力あるし、生活の心配もないし。
根拠の無い自身もあるしね。

避難所とか居ないで外探検しに行くだろうな私だったら。

大人には大変だが、子供は滅多に体験出来ない非日常を味わえ楽しいはず。
こう言っちゃなんだが、子供の頃に色々体験しとけば年取っても対処できるもんだよ






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中学生監禁男性堂々として妙に凛々しい

人間は何かを支配下におきたいものなんだな。
だからできない強者よりもできる弱者を選ぶもの。

それを卑怯だとか最低とか思わない。

自然界では当たり前のこと。
それが人間には都合が悪いから歪められている。
どんな獣でも自分より強い生物に喧嘩も売らんし近寄らない。
人間社会が特殊なんだよ。

弱者が平気で外を闊歩できるのは不思議だ。
この事実を不思議に感じる奴だけが周囲に警戒心を持つことができる。

本来弱者に生の選択権は無い。
まあ、それが皆嫌だから弱者で示し合わせて作ったのが法だからな。
法という弱者救済を"建前”にしている弱者の多い人間社会では、否定されるだろう。

弱者ゆえ、自分もまた同じ目に会いたくはないからな。
皆がそう考える。
この考えのほうがそもそも卑怯なんだよ。

何かに守ってもらわねば生きていけないなら生きるな。
そして、守られる代わりに生を管理されることを強制するなと。

中には、生を犠牲にしても好き放題やりたい奴もいるんだがね。


それにしても、世間的には悪事としても悪いことやった人間の顔じゃなくないか?
なんかカッコいい面構えしてるし・・・

本人的にはしたいことして満足なのではなかろうか。
自分のやったことが世間から悪として批判されようが自分の中では悪いことでもなんでもないと考えている様に見える。
よくわからんけど、有能そうだし。

人一人面倒見るのは大変だろう。
普通に考えて、ガキ一人育てたって事だろ?
ガキなんてよく面倒見れるもんだよあんな可愛くも無い生物をな。

自分だったら御免だし、できない。

それだけは凄いよ、立派立派




甘いな、普通逃がさない

その辺が若いよ








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